隠れ家~*DQN脱出の1年間*~放射線技師になるんだぉ!!

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チェルノブイリ原発事故

今回はWikiよりコピペのみ

チェルノブイリ原子力発電所事故(チェルノブイリげんしりょくはつでんしょじこ)とは、1986年4月26日1時23分(モスクワ時間 ※UTC+3)にソビエト連邦(現:ウクライナ)のチェルノブイリ原子力発電所4号炉で起きた原子力事故。広島に投下された原子爆弾(リトルボーイ)に換算して約500発分の原爆投下に相当する量の放射性物質が撒き散らされたことから、「核戦争」とも表現された。

4号炉は炉心溶融(メルトダウン)ののち爆発し、放射性降下物がウクライナ・白ロシア(ベラルーシ)・ロシアなどを汚染した。事故後のソ連政府の対応の遅れも相まって被害が拡大・広範化し、史上最悪の原子力事故となった。

この規模の原発事故は他に例がなく、原子力開発の歴史上で最悪の事故と言われている。

事故当時、爆発した4号炉は操業休止中であり、原子炉が止まった場合を想定した実験を行っていた。この実験中に制御不能に陥り、炉心が融解、爆発したとされる。爆発により、原子炉内の放射性物質[1]が大気中に大量に(推定10t前後)放出された。これは、広島に投下された原子爆弾(リトルボーイ)による放出量の500倍とも言われている。

当初、ソ連政府は住民のパニックや機密漏洩を恐れ、この事故を公表しなかった。また、付近住民の避難措置なども取られなかったため、彼らは甚大な量の放射線をまともに浴びることになった。しかし、翌4月27日にスウェーデンのフォルスマルク原子力発電所にてこの事故が原因の放射性物質が検出され、4月28日、ソ連も事故の公表に踏み切った。日本においても、5月3日に雨水中から放射性物質が確認された。

爆発後も火災は止まらず、消火活動が続いた。アメリカの軍事衛星からも、赤く燃える原子炉中心部の様子が観察されたという。ソ連政府によれば、5月6日までに大規模な放射性物質の漏出は終わったとされる。

爆発した4号炉をコンクリートで封じ込めるために、延べ80万人の労働者が動員された。4号炉を封じ込めるための構造物は石棺(せっかん)と呼ばれている。

事故による高濃度の放射性物質で汚染されたチェルノブイリ周辺は、居住が不可能になり、約16万人が移住を余儀なくされた。避難は4月27日から5月6日にかけて行われ、ソ連の発表によれば、事故発生から1ヶ月後までに原発から30km以内に居住する約11万6千人全てが移住したという。しかし、生まれた地を離れるのを望まなかった老人などの一部の住民は、移住せずに生活を続けた。

放射性物質による汚染は、現場付近のウクライナだけでなく、隣のベラルーシ、ロシアにも拡大した。

ソ連政府の発表による死者数は、運転員・消防士合わせて33名だが、事故の処理にあたった予備兵・軍人、トンネルの掘削を行った炭鉱労働者に多数の死者が確認されている。長期的な観点から見た場合の死者数は数百人とも数十万人とも言われるが、事故の放射線被曝とガンや白血病との因果関係を直接的に証明する手段はなく、科学的根拠のある数字としては議論の余地がある(詳しい議論は露語・英語版参照)。直接チェルノブイリ原子力発電所をコントロールしているのはウクライナ共和国の陸軍で、軍人の話では3000人が事故当日に即死した。

事故後、この地で小児甲状腺癌などの放射線由来と考えられる病気が急増しているという調査結果もある

1986年8月のウィーンでの国際原子力機関(IAEA)非公開会議で、ソ連側の事故処理責任者ヴァシリー・レガソフは、広島原爆での結果から、4万人が癌で死亡するという推計を発表した。しかし、会議では4,000人と結論され、IAEAの公式見解となっており、2005年にも同じ数字が公式発表された。

事故発生時、4号炉では動作試験が行われていた。これは、原子炉停止によって電源が停止してから非常電源に切り替えるまでの短い時間の間、システムが動作不能にならないように、原子炉内の蒸気タービンの余力で最小限の発電を行うというものであった。しかし、責任者の不適切な指示や、炉の特性による予期せぬ事態の発生により、不安定状態から暴走に至り、最終的に爆発した。

動作試験は、原子炉熱出力を定格熱出力の20% - 30%程度に下げて行う予定であったが、炉心内部のキセノンオーバーライドによって、熱出力が定格の1%にまで下がってしまった。運転員は熱出力を回復するために、炉心内の制御棒を引き抜く操作を行った。これにより、熱出力は7%前後まで回復したが、反応度操作余裕(炉心の制御棒の数)が著しく少ない不安定な運転状態となった。これにより実験に支障が出ることを危惧した運転員らは、非常用炉心冷却装置を含む重要な安全装置を全て解除したうえで、実験を開始した。実験開始直後、原子炉の熱出力が急激に上昇しはじめたため、運転員は直ちに緊急停止操作(制御棒の挿入)を行ったが、この原子炉は、特性上制御棒を挿入する際に一時的に出力が上がる設計だったため、原子炉内の蒸気圧が上昇し、緊急停止ボタンを押した6秒後に爆発した(緊急停止ボタンを押したために原子炉が暴走した【→制御棒を挿入しようとしたが、大きい音と共に挿入が停止した】とする説もある)。

この爆発事故は、運転員への教育が不十分だったこと、特殊な運転を行ったために事態を予測できなかったこと、低出力では不安定な炉で低出力運転を続けたこと、実験が予定通りに行われなかったにもかかわらず強行したこと、実験の為に安全装置をバイパスしたことなど、多くの複合的な要素が原因として挙げられる。後の事故検証では、これらのいずれかがひとつでも守られていれば、爆発事故、或いは事故の波及を最小限に抑えることができた可能性が極めて高いとされている。

当初ソ連政府は、事故は運転員の操作ミスによるものとしたが、事後の調査結果はこれを覆すものが多い。重要な安全装置の操作が、運転員の判断だけで行われたとは考えにくく、実験の指揮者の判断が大きかっただろうと考えられる
事故から20年後の一部報道の中には、暴走中に「直下型地震」が発生したことが爆発に繋がったとするものもある。ロシア地球物理学研究所のストラホフ前所長によると、事故の約20秒前に小さな直下型の地震があったが、原子炉は耐震構造ではなかったために原子炉で爆発が起きたということである。しかし、京都大学の今中哲二は、他の1 - 3号炉に異常が無かったこと、付近の住民が地震についての証言をしていなかったことなどから、地震計に記録されているとされるその振動は、4号炉の爆発そのものによって引き起こされたものであると反論している。

事故の前年の12月26日の原子力産業の記念日にあわせて4号炉を完工するために、耐熱材質を不燃性材質から可燃性材質へと変更し施工を強行したことも放射性物質の拡散拡大の原因にあげられる。

1986年4月25日に、4号炉は定期保守のためにシャットダウンすることが予定されていた。この時を利用して、外部電源喪失時に4号炉のタービン発電機によって原子炉の安全システム(特に冷却水ポンプ)に十分な給電を行うことができるかどうかについての試験を行うことが決められた。

具体的には、4号炉の出力を利用してタービンを回した後にこれを4号炉から切り離し、その際にタービン自体が慣性力で回り続けることによってどれだけの発電出力を得られるかという試験であった。 この試験に際しては、原子炉の出力は標準出力の3.2ギガワットから、より安全な低い出力である700メガワットまで減らす計画になっていた。

実験を行うために、実験予定日の前日から運転員は炉の出力を予定通りの700メガワットに落として実験開始に備えていた。しかし、中央の出力司令所からの給電指令が長時間にわたり延期されたために、当初の予定時刻を過ぎても実験を開始できなかった。

その間に、原子炉の内部では中性子を吸収する性質が強いキセノンがどんどん溜まっていき、キセノンオーバーライド状態になって出力が自然に低下し始めた。運転員は低下した出力を無理に補うため挿入されていた制御棒を抜かざるをえず、出力が下がっては抜き、下がっては抜きを繰り返すことによって、延びに延びた実験開始の時点では炉の自動制御棒の殆どが抜かれていたといわれている。

これにより、炉内の出力分布は、まるでフタコブラクダのコブのように、本来核分裂反応が一番活発に行われているはずの中央部で低調で、上下の部分に大きなピークが出現する状態となっていた。

事故を引き起こした実験はこのような状態から開始された。まず、上記のキセノンによる中性子吸収効果によって制御棒を目一杯まで引き出していた状態から実験に適した更に低い出力状態へ移行するために、制御棒が挿入された。しかしその瞬間、炉の出力は予定外の30メガワットまで低下した[2]。

この出力レベルは安全規則が許す限界に近かったにもかかわらず、現場の指揮者は原子炉を停止せずに実験を強行する事を決めた。しかも下がりすぎた出力を補うために本来の実験手順・要項の一部を省略し出力を200メガワットとすることに決めた。結果として過剰となったキセノン-135の中性子吸収を克服する為、多くの制御棒が炉から引き抜かれ、安全規則で定められていた最低限絶対必要な制御棒本数26本をやや下回る事となった。

実験の予備段階として、4月26日1時05分にタービン発電機によって動かされる冷却水ポンプが起動されたが、14分後の1時19分にはこれによって生成された水流が安全規則によって指定された流量を超えてしまう。水もまた中性子を吸収し炉の出力を下げる働きをするので、出力を確保するためにさらに炉から手動で制御棒を引き抜かなければならなくなった(爆発直前の制御棒本数は計6本にまで減らされていた)。

このような非常に不安定な炉心状態で、1時23分04秒に実験が始まる。

原子炉の不安定な状態は制御盤にはまったく表示されず、原子炉の操作員たちの誰も危険に気付いていなかった。冷却水ポンプへの電気が止められ、そのポンプがタービン発電機の慣性によって運転されるとその流量は減少した。タービンは炉心で蒸気量を増やしつつある原子炉から切り離された。

冷却材が温められるにつれて、冷却材配管中に蒸気のポケットができた。チェルノブイリのRBMK黒鉛減速炉は設計上、大きい正のボイド係数を持っている。それはすなわち、水の中性子を吸収する効果が無くなると原子炉の出力は急速に増加し、原子炉の運転が次第により不安定に、より危険になることを意味する。

1時23分40秒に操作員は「スクラム」(軽率にも引き抜かれていた手動制御棒を含むすべての制御棒の全挿入)を命令する「事故防衛」ボタンを押した。それが緊急処置として行われたのか、あるいはただ実験の一部として原子炉停止の型通りの方法(4号炉は通例通りの保守のために停止が予定されていた)として行われたのかは不明であるが、その予期しない速い出力増加を止めるための緊急対応として命じられたものだと一般には考えられている。他方、チェルノブイリ原子力発電所の事故当時の最高エンジニア アナトリー・ディアトロフ は彼の著書[1]で次のように述べている:

01:23:40より前には、中央制御システムは……スクラムを正当化するようなパラメータ変動を記録していなかった。委員会……が大量の資料を集め分析したが、その報告で述べられた通り、なぜそのスクラムが指示されたかの理由は特定できなかった。その理由を探す必要などなかった。その原子炉はただ実験の一部として停止されたのだから。

制御棒挿入機構のスピードの遅さ(完了までに18 - 20秒)、制御棒の先端に存在する空洞、そしてその空洞と冷却材が一時的に置き換わることによって、スクラム操作は反応率を増やす結果になった。 さらに、増えたエネルギー出力が制御棒経ガイドの変形を起こしたために制御棒は3分の1だけ差し込まれたところで動かなくなり、原子炉の反応を止められなくなった。

1時23分47秒までに、原子炉出力は標準的な運転出力の10倍であるおよそ30ギガワットまで跳ね上がった。燃料棒は融け始め、蒸気圧力は急速に増大して蒸気爆発を起こし、原子炉の蓋を破壊し、冷却材配管を破裂させ、屋根に穴を空けた。

推測では爆発は2度あり、2度目の爆発によりおよそ1,000tあった蓋が破壊された。ソ連の事故報告書によれば、この2度目の爆発は、燃料棒被覆や原子炉の構造材に使用されていたジルカロイと水が高温で反応したことによって発生した水素による水素爆発である。これに対し、冷却水を完全に喪失した事によって即発臨界に至り、一種の核爆発が起こったとする説もある。

経費を減らすためとその大きさのために、4号炉は部分的な封じ込めだけで建設されていた。このため、蒸気爆発が一次圧力容器を破裂させたあと、放射性の汚染物質が大気中に漏れることになった。その屋根の一部が吹き飛んだ後、急速に流れ込んだ酸素と原子炉燃料の非常に高い温度が合わさって、黒鉛減速材が黒鉛火災を起こした。この火災は、放射性物質の拡散と周辺地域の汚染の大きな一因になった。
論争 [編集]

目撃証言と発電所の記録の間に矛盾があるために、現地時間1時22分30秒の後に起こったイベントの正確な繋がりについて若干の論争がある。

最も広く合意されている説明は上で記述した通りであるが、この理論によれば、最初の爆発は操作員が「スクラム」を命令した7秒後のおよそ1時23分 47秒に起きたことになる。しかし、爆発がそのスクラムの前、あるいはすぐ直後に起きたと時々主張される(これはソビエト委員会の事故調査の作業途中での説明であった)。

この違いは重大である。なぜなら、もし原子炉がスクラムの数秒後に超臨界になったなら、その事故原因は制御棒の設計に帰されなければならないのに対して、爆発がスクラムと同時に起こったのであればその責任は指揮者にあったことになるからである。

実際には、1時23分39秒にマグニチュード-2.5の地震に類似した弱い地震動のイベントが、チェルノブイリ地方で記録されていた。 この振動は4号炉の爆発によって起きたのか、あるいは全くの偶然の一致かもしれない[3]。原子炉の致命的な破壊はこの地震によって引き起こされたとされる説も存在する。その状況は「スクラム」ボタンが一度ならず押されたという事実によって複雑になっているが、実際にスクラムボタンを押した人物は放射線障害により事故の2週間後に死亡しているため真相は不明である。
事故発生直後の対応 [編集]

地方行政当局の対応のまずさと適切な設備の欠如によって事故の規模は拡大した。

4号原子炉建屋に設置された線量計は、2つを除いて1ミリレントゲン毎秒までしか測定できないものだった。残りの2つの線量計は1,000レントゲン毎秒まで測定可能だったが、そのうち1つは爆発のために接近できず、もう1 つは作動させた時に故障していた。そのため、原子炉の操作員は原子炉建屋の大部分の放射線レベルが4レントゲン毎時より大きいことを確認できただけだったが、実際の線量レベルは、最も高い区域で20,000レントゲン毎時であった[4]。このような不完全な情報に基づき、操作員の班長アレクサンダー・アキモフは原子炉が損なわれていないと判断した。このとき、建物周辺には黒鉛と核燃料の小片が横たわっていたが、原子炉破損の判断には繋がらなかった。また、現地時間4時30分までに持ち込まれたもう1つの線量計による測定値は、線量計の故障と判断された。原子炉に水を送り込もうと作業を続けたアキモフと操作員は、翌朝まで原子炉建屋に留まったが、いずれも保護具を着用しておらず、大部分は事故後3週間で放射線障害のため死亡した。

事故直後、消防士が消火活動のために到着したが、彼らは放射性物質による煙や残骸等がどれほど危険であるかを告げられてはいなかった。火災は5時までには消火したが、多くの消防士が高い放射線量を被曝した。 事故を調査するために政府委員会が招集され、副首相が4月26日夜チェルノブイリに到着した。 その時までに2人が死亡し、52人が入院していた。 4月26日の夜(その爆発の24時間以上後)に、非常に高いレベルの放射能と多人数の放射線被曝の十分な証拠に直面した委員会は原子炉の破損を認めなければならなくなり、プリピャチ(ウクライナ)の近くの都市からの退避を命令した。

大惨事の拡大を止めるために、ソビエト政府は清掃作業にあたる労働者を現地に送りこんだ。 (陸軍兵士とその他の労働者で構成された)多くの「解体作業者(liquidator)」が清掃スタッフとして送り込まれたが、大部分がその危険について何も知らされておらず、効果的な保護具は利用できなかった。 放射性の残骸のうち最悪のものは原子炉の残骸の中に集められた。原子炉それ自身はヘリコプターから投下された砂嚢(事故の翌週間におよそ5,000t)で覆われていた。大きい鉄の石棺が原子炉とその中身を封じ込めるために早急に建てられた。
直後の結果 [編集]

203人が即座に入院し、内31人が死亡、28人が急性放射線障害だった。彼らは事故を収束させるべく集まった消防と救急の労働者だったが、煙等からの放射線被曝がどれくらい危険であるかには気付いてはいなかった。

プリピャチ(ウクライナ)の近くの町からの50,000人を含む合計135,000人が、この地域から避難させられた。

厚生当局は、次の70年に亘って、原子炉から放出された(情報源によって幅があるが)5 - 12EBqの放射能を持つ放射性物質による汚染により被曝した人口について発がん率に2%の増加があるだろうと予測した。

さらに10人がこの事故の結果、癌により死亡した。

国際原子力機関(IAEA)の1986年の分析では操作員の運転操作を事故の主要な原因として引用していた。1993年1月に、IAEAは、操作員のエラーではなく原子炉の設計に主要な根本原因が起因すると考えて、チェルノブイリ事故の改訂された分析を出した。

ソ連の科学者は、チェルノブイリ4号炉が二酸化ウラン燃料および核分裂生成物を約190kg内包していると報道した。 この物質の量のうち放出した量の評価は、13から30%までの範囲でばらついている。

チェルノブイリ事故による汚染は、周辺の地方全体に平等に広がったわけではなく、天候に依存して不規則に散らばった。ソビエトおよび西側の科学者からの報告書は、ベラルーシが旧ソ連全体に降りかかった汚染の約60%を受けたと述べている。 しかし、北西ウクライナの一部でもあった、ブリャンスクの南にあるロシア連邦の広い地域も汚染された。

チェルノブイリは初めは秘密災害だった。大きな原子力事故が起こったという初期の情報はソ連からではなく、スウェーデンだった。4月27日に、チェルノブイリ原子力発電所からおよそ1,100kmにあるスウェーデンのフォシュマルク原子力発電所の労働者の衣服に放射性の粒子が付着していることが判明したのだった。スウェーデンによる放射性物質の発生源の捜索により、この漏洩がスウェーデンの原子力施設からではないと断定したことが、西ソ連で重大な原子力問題が起こっているという最初のヒントになった。
影響 [編集]
事故後放棄された村

チェルノブイリ事故はその規模だけでも比較するものがない。商用発電炉の歴史で、放射線による死者が出たのはこれが初めてだった。

2000年4月26日の14周年追悼式典での発表によると、ロシアの事故処理従事者86万人中、5万5千人が既に死亡した。ウクライナ国内(人口5千万人)の国内被曝者総数342.7万人の内、作業員は86.9%が病気に罹っている。

周辺住民の幼児・小児などの甲状腺癌の発生が高くなった。

IAEAの記録によると、チェルノブイリ事故による放出は、広島に投下された原子爆弾(リトルボーイ)の放射性の汚染の400倍多いが、20世紀中頃の大気圏内核実験で起こった汚染の100から1,000分の1だった。チェルノブイリ事故は局地的な災害であって、全地球的災害ではないという考え方もできる。
直後の影響 [編集]

爆発時、炉心内部の放射性物質は推定10t前後大気中に放出され、北半球全域に拡散した。

周辺地域の家畜に放射性物質が蓄積され、肉、牛乳も汚染された。

事故直後の社会現象としては、例えば、日本では欧州産スパゲッティの販売量が一時的に急減した。「放射線障害に効く」というデマが流れ、ヨード卵の価格が高騰した。大阪のくいだおれでは、とろろ昆布とわかめを大量に入れ、ヨード卵を加えたうどんが「放射能除けうどん」として販売された。

日本では、この事故をきっかけに原子力発電そのものに対する一般市民の不安が急増した。このため、政府は、日本の原子炉はアメリカ型で、事故を起こしたソビエト型とは構造が異なり、同様の事故は起きないという説明を行った。
放射能の長期的動向 [編集]
放射性物質の減衰予想グラフ。縦軸が残留濃度 横軸が経過年数
セシウム137の濃度に基づく放射能汚染地域

事故の直後においては健康への影響は主に半減期8日の放射性ヨウ素によるものだった。今日では、半減期が約30年のストロンチウム-90とセシウム-137による土壌汚染が問題になっている。最も高いレベルのセシウム-137は土壌の表層にあり、それが植物、昆虫、きのこに吸収され、現地の食糧生産に入り込む。最近の試験(1997年頃)によると、この区域内の木の中のセシウム-137のレベルは上がりつづけている。汚染が地下の帯水層や、湖や池のような閉じた水系に移行しているといういくつかの証拠がある(2001年、Germenchuk)。雨や地下水による流去は無視できるほど小さいことが実証されているので、消滅の主な原因は、セシウム-137がバリウム-137へ自然崩壊することだと予想されている。
労働者と解体作業者 [編集]

事故後に復旧と清掃作業に従事した労働者は高い放射線線量の被曝を受けた。ほとんどの場合、これらの労働者は受けた放射線量を計測するための個人線量計を装着していなかった。それゆえ専門家は彼らの被曝線量を推定するしかなかった。線量計が使われていた場合でも、測定手順はまちまちだった。

一部の労働者たちは他のものよりも大量の線量を受けたと推定された。ソ連の推定によると、30万から60万人が炉から30kmの退避区域のクリーンアップに従事したのだが、その多くは事故から2年後にその区域に入った(解体作業者"liquidators"とは事故の処理と復旧作業のためにその区域に立ち入った労働者を言うが、その推定人数はまちまちである。例えば、世界保健機関(WHO)は約80万人とし、ロシアは汚染区域で働いていなかった一部の人間も解体作業者としてリストに含めている)。事故から最初の1年で、この区域のクリーンアップ労働者は21万1,000人と推定される。これら労働者は推定平均線量165ミリシーベルトを受けた。
避難 [編集]
事故により立ち入り禁止措置がなされゴーストタウンになったウクライナプリピャチの市民プール
プリピャチ市内
清掃作業に従事した者に授与された勲章

ソ連政府は事故から36時間後にチェルノブイリ周辺の区域から住民の避難を開始した。およそ一週間後の1986年5月までに、当該プラントから30km以内に居住する全ての人間(約11万6千人)が移転させられた。

ソビエトの科学者の報告によると、28,000km2が185kBq/m2を超えるセシウム-137に汚染した。約83万人がこの区域に住んでいた。約10,500km2が555kBq/m2を越えるセシウム-137に汚染した。このうち、ベラルーシに7,000km2、ロシア連邦に2,000km2、ウクライナに1,500km2が属する。約25万人がこの区域に住んでいた。これらの報告データは国際チェルノブイリプロジェクトにより裏付けられた。
健康被害 [編集]

民間人に対する長期的影響についての問題は、議論の余地が大きい。この事故で生活に影響が出た人の数は極めて多く、30万人を超える人が事故のために移住を余儀なくされ、約60万人が事故後の処理に従事した。現在も数百万人の人々が汚染区域に住み続けている。 その一方で、これらの影響された人の大部分は、比較的低い線量の被曝しか受けていない。このため、彼らの間で死者数、ガン、先天性異常が増加した証拠はほとんど無い。さらに、そのような証拠があった場合でも放射性の汚染との関連性は明確ではない。

汚染された区域の一部の子供は、甲状腺に最大50グレイの高い線量を受けた。これは汚染された地元の牛乳を通じて、比較的寿命の短い同位体である放射性ヨウ素を体内に取り込んだからである。いくつかの研究により、ベラルーシ、ウクライナ、およびロシアの子供での甲状腺ガンの発生が急激に増えていることが判った。IAEAの報告によると、「事故発生時に0歳から14歳だった子供で、1,800件の記録された甲状腺ガンがあったが、これは通常よりもはるかに多い」と記されているが、増加割合は記されていない。発生した小児甲状腺ガンは大型で活動的なタイプであり、早期に発見されていたら処置することができた。処置は外科手術と、転移に対するヨウ素131治療が必要である。現在までのところ、このような処置は診断されたあらゆるケースにおいて成功を収めているようだ[要出典]。

1995年、世界保健機関は、子供と若年層に発生した700件近い甲状腺ガンをチェルノブイリ事故と関連付けた。10件の死亡が放射線に原因があるとした。しかし、検出される甲状腺ガンが急速に増えているという事実は、そのうち少なくとも一部はスクリーニング過程によって作り出されたものであることを示唆している。放射線により誘起される甲状腺ガンの典型的な潜伏期間は約10年であるのに対し、一部地域での小児甲状腺ガンの増加は1987年から観測されている。しかし、この増加が事故と無関係なのか、あるいはその背後にあるメカニズムかは、まだ十分に解明されていない。

これまでのところ、白血病の識別できる増加は無いが、今後数年間[要出典]で、その他のガンの発生数が統計的に識別可能ではないが増えてくることと合わせて、明白になると予想されている。

汚染区域、および周辺地域において、先天的異常、流産、およびその他の放射線によって誘起される病気については、チェルノブイリとの関連が実証された増加は無い。

ベラルーシ、ウクライナ、およびロシアの、チェルノブイリ事故で影響を受けた地域における子供たちの間での甲状腺ガンの発生の増加は、スクリーニング計画の結果であったことが、はっきりと証明されている。ベラルーシの場合は、ガン登録制度のためだった。ほとんどの疫学的調査の知見は中間的なもので、事故による健康への影響の分析はいまだ途上にある。

資金不足、不十分な時系列的疫学調査、貧弱な通信設備、および多くの要因からなる緊急の公衆衛生問題により、旧ソビエトでは疫学的調査が遅々として進んでいない。適切に設計された疫学的調査よりも、スクリーニングに重点が置かれてきた。適切な科学インフラが不足しているため、国際的に疫学的調査を体系だてて行うことが遅れている。

ベラルーシ・ウクライナは、環境の回復、退避と再定住化、汚染されていない食料の開発と食料流通経路の開発、公衆衛生への対策などを行ってきたが、重過ぎる負担になっている。国際機関と外国政府は広範囲に渡る物流支援、人道支援を行ってきた。加えて、欧州委員会と世界保健機関は、ロシア、ウクライナ、ベラルーシでの疫学的調査基盤を強化し、あらゆる種類の疫学的調査の能力を向上させている。

2002年の原子力機関の報告によって、主な事故の長期的影響の原因は放射線医学的によらないと特定された。影響を受けた区域で暮らすことへの不安とストレスが住民に深刻な心理的インパクトを与えたのだった。住民が元々暮らしていた場所から離れた区域へ再定住化した結果、家族、社会ネットワークが離散し、既に住んでいる住民から嫌われるような地域に移転することにより、心理的影響が与えられた。

住民は現在でも少なくとも半年に1回は定期的な健康診断を受けており、健康に不安を持っている。一部の人には、男性では頭髪が抜けたり、女性ではひげが濃くなったりといった症状を訴える人もいる。
自然界への影響 [編集]

第一回チェルノブイリ事故の生物学的、放射線医学的観点にかかる国際会議(1990年9月)でのソビエトの科学者による報告によると、当該プラントから10km区域での放射性降下物のレベルは4.81GBq/m2であった。大量の放射性降下物により枯死したいわゆるマツの「赤い森」が10km区域内のサイトのすぐ背後の地帯に広がっている。この森は、事故後、極めて大量の放射性降下物により枯死して赤茶色に見える木々のためにそう名づけられた。事故後のクリーンアップ作業の中で、4km2の森の大部分が埋め立てられた。赤い森のある場所は、世界で最も汚染された地域の一つである。

この地域の動植物に放射性降下物が長期的な悪影響をもたらしたかどうかはいまだ分かっていない。動植物は人間に比べ、放射線耐性が大きく異なり、また幅広く差があるためである。この地域の一部の植物が突然変異しているという報告もあって、そのため、奇怪な姿に変異した多くの植物があるという「ふしぎの森」や「奇怪な森」についての根拠の無い噂がいくつか生まれている。

しかしながら、その場所から人間がいなくなったことが皮肉にも自然の復活をもたらしつつあるようで、たとえば事故後およそ20年後現地に入ったウクライナ系米国人ジャーナリストによれば、猪を主に希少な動植物が数を増やしているという[5]。
事故後のチェルノブイリ [編集]
運転 [編集]

チェルノブイリプラントのトラブルそのものは4号炉の惨劇で終わったわけではなかった。ウクライナ政府は、国内のエネルギー不足のため残った三つの原子炉を運転させ続けた。この時のウクライナ政府は財政難で新規の発電所の建設が困難であったためチェルノブイリ原子力発電所をそのまま使わざるえなかった。

1991年に2号炉で火災が発生し、政府当局は炉が修復不能なレベルまで損傷していると宣言して、電源系統から切り離した。1号炉は、ウクライナ政府とIAEAのような国際機関との間の取り引きの一部として1996年11月に退役した。

2000年11月に、レオニード・クチマウクライナ大統領本人が公式式典で3号炉のスイッチを切り、こうして全プラントが運転停止した。
石棺 [編集]
石棺。炉心を中心に設計されている。

4号炉は事故直後、大量の作業員を投入し、石棺と呼ばれるコンクリートの建造物に覆われた。石棺の耐用年数は30年とされており、老朽化への対策が望まれている。

事故後、放射能汚染により人が立ち入ることができなかったことから原発事故の直撃を受けた職員の遺体が搬出されることがなかった。事故直後無防備のまま炉の中に入った数名の作業者の行方がわからず、現在も、石棺の中に数名の職員の遺体があるとみられる。遺体はおびただしい放射能を帯びているため、搬出できるまでには数世紀かかるとみられている。

石棺の中では、放射性物質拡散防止のために特殊な薬剤が散布されているが、大半が外部に流出しているとみられている。
将来の補修の必要性 [編集]

石棺はこの場合効果的な封印手段ではなく、石棺の建設は応急処置である。大半は産業用ロボットを用いて遠隔操作で建設されたために老朽化が著しく、万が一崩壊した場合には放射性同位体の飛沫が飛散するリスクがある。より効果的な封印策について多くの計画が発案、議論されたが、これまでのところいずれも実行に移されていない。国内外から寄付された資金は建設契約の非効率的な分散や、杜撰な管理、または盗難に遭うなどして浪費される結果となった。

年間4,000kl近い雨水が石棺の中に流れ込んでおり、原子炉内部を通って放射能を周辺の土壌へ拡散している。石棺の中の湿気により石棺のコンクリートや鉄筋が腐食しつづけている。

その上事故当時原子炉の中にあった燃料のおよそ95%が未だ石棺の中に留まっており、その全放射能はおよそ1,800万キュリーにのぼる。この放射性物質は、炉心の残骸や塵、および溶岩状の「燃料含有物質 (FCM)」から成る。このFCMは破損した原子炉建屋を伝って流れ、セラミック状に凝固している。単純に見積もっても、少なくとも4tの放射性物質が石棺内に留まっている。
シェルター構築計画 [編集]

シェルター構築計画 (SIP) は、現在4号炉を覆っている石棺の上に、新安全閉じ込め設備 (NSC) と呼ばれる、石棺を覆うようにして滑らせる可動式のアーチを建設し、それを使用して石棺内にあるとされる放射能物質や汚染された瓦礫などを排除し、4号炉の中にある放射能をゼロにするという計画である。放射能や水の汚染などの問題解決が期待されるが、建設に莫大な費用(推定コストは7億6800万ドル)や労力がかかるという問題がある。

チェルノブイリシェルター基金は1997年のデンバーG7サミットでシェルター構築計画に資金を提供するために設立された。

シェルターはベクテル、バッテル、フランス電力公社によって管理される予定。

NSCの概念設計は、高い放射線場を避けるためシェルターから離れた場所で建設してから取り付ける方式をとる。NSCは史上最大級の可動式構造物になることが想定される。
訪問 [編集]

2010年12月21日より、ウクライナ政府は正式にチェルノブイリ原子力発電所付近への立ち入りを許可した。 本来は発電所から半径30km以内はそれまで立入禁止であった。ウクライナ政府が正式にこのような許可を発表したのは、現在は発電所付近の放射線レベルが低くなったためとの発表があったためである。 しかし、2010年12月29現在、ガイガーカウンターでは3500ミリシーベルトが確認され、日本では1日の許容量は0.3ミリシーベルトである。この様な莫大な放射線は人体に大きく影響する。 キエフからはツアーが催行されているが、被爆の危険性が非常に高いので薦める事はできない。
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